2015-11-15
いかり・かなしみ・しんじるということ
怒るべきタイミングがわからない。
そもそも怒るべきタイミングなんてあるのだろうか。
人は怒る。
きっと、怒るかどうか考えている暇もなく怒る。
喜怒哀楽はきっと
その直前にそれを表に出すか否か考える間もなく
表に出ていくモノなんだとも思う。
ときにモノにあたり、人を叩き、黒板に拳を叩きつける人たちを見
一方で理不尽なポイントから相手を精神的に追い詰める人も見た。
何故怒るのかと考えた。
伝えたいことがあって、それを伝える手段として怒りをぶつける人
ただ堪えきれずあふれ出るままに怒りをあらわにする人。
どれも私には理解の範疇を超えているように思われる。
たぶん私は本当に怒っているという状態になることは
ないんじゃないかと思う。
人はよく私を怖いというし、怒ってると勘違いする。
けど私はそういう時往々にして
ただ事実確認をしようとしていたり、
間違っていると思われることを指摘していたり、
真面目にやろうと心がけているだけだったりする。
そこに相手を打ち負かそうとか
泣かそうとか
自分が上に立とうとか
燃え上がるような怒りとか
そういうものはない。
…本当にない。
ただ経験上、
私が真面目に指摘を続けると相手が怒ったり泣いたりするので
そうならないか心配ではあり、
相手が平謝りする状況や
相手が言い負かすためだけにこちらに攻撃的発言を繰り返す状況になると
私としては『何の話も進まないからもういいや』という状態に陥る。
特に何かを共にクリエイトしたいと思っている人との会話でそのような状況になると、
(沢山いた。今までに、たくさん。)
もう一緒に何かすることはないな、と思う。
あきらめてしまう。
ただただ何かを議論したいと思っている人との会話でそのような状況になると
…そんな状況で議論なんてできない。
日本人は…
私が普段生活する中の、
インターネット以外の部分を発端に関わったことのあるほとんどの日本人は
『人が何かの事象や物事についてつらつらと言葉をつむぐ行為を怒りの表れだと勘違いする』
ことが多いと思う。
逆に日本人以外の人はそうではないことのほうが多い。
あくまで私の経験則だけど。
別に、怒っていなくても語ることはあるだろうと私は思うのだけど周囲はそうでもない。
そうでもないどころか語ろうとする人々を『奇特な人』『変な人』『面倒な人』『煩い人』
とレッテルを貼って流そうとする。
レッテルは貼ればいいと思うし流せばいいとも思う。
そこはまぁ自由だし。
私が考えているようなことを人々は考えているのか、
どう思っているのかを聞くことはとても難しいし、
それを敵対心なしに語ってくれる人など9割がたいないのかもしれないという印象を受ける。
なので私はインターネットで彼是物事を書き、
わざわざ新たなるコミュニティを探して謎のテストを受けてみたりする。
…んじゃないかなぁ。
みんなとわかり合いたくて話せばわかると思ってる、
言わなくてもわかるでしょ、自分さえ良ければいい、
自分が今当てはまろうとしている枠組みが確固たるモノだと思っている、
誰かが助けてくれる、人間の心は皆が持ってるはず、
困ったときはお互い様だから私のことも助けてくれる人はいるはず、
…
私はそうは思えないことのほうが多いけど、
それを頼りにしている人も多いようだ。
こう思っていないとしたらあまりにも向こう見ずであったり
あまりにも冒険者な人が多いということにもなる。
そう思えない現実が目の前にあるのにどうしてそう思えるのか。
あるいはそう思っていないとして
根本的な自分の思考や生活を考えたことがあるか。
あるいは
自分が何を考えてどんな生活を送るかということを
自分で主導権を持って考えているかどうかを考えたことがあるか。
…ないんじゃないかという印象。
それでいいんだけど、
たぶん私は、信じられない。
その人たちのことを、信じられない。
信じられなくてもいいのかもしれないし、
自分自身が信じているものごとや人なんて
本当に一握りの砂のようにするすると落ちていくぐらい
儚いとも感じる。
(自分が本当に心から信じているものがあるか
数秒間考えたけど直ぐには思いつかなかったし
ココにかけるような類のことはないように思われる。
抽象的になるが強いて言えば自分は信じている。
自分を信じる度合いが強いかもしれないので他人からすれば
私もある意味チャレンジャーではあるのかもしれない。)
安全に生きることもままならず
著しく自分の権利を侵害されたり
自分自身を心や体の側面から傷つけられたとき、
それ以外でも、私の想像の及ばないような状況に陥ったとき、
人は何かを信じないといられないのかもしれない。
信じてすがり付いてその柱に摑まって、
その柱が実は自分をものすごいスピードで振り回していたとしても
そして、振り回されている自分の靴が、
誰かの生活を思いっきり蹴っ飛ばしてぶち壊しにしていたとしても
信じることでしか救われない状況になる人もいるのかもしれない。
人間は、脆く儚い。
そして脆く儚い視界では、すべてのものが脆くて儚い。
そんなことを考えている。
今日この頃。
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