その人と知り合ったのは幼稚園の年中の時だった。
その頃仲良しだった。−と少なくとも彼女はそう思っていたに違いない。−
綾ちゃんが砂場で誰よりも大きい山とトンネルを作ることに必死になっているのを向い側で手伝っていたある日、
彼は私の視界に現れた。
そしてまだ建設途中だった山を、結構な勢いで踏み潰した。
まるでちょこまかと動き回るアリを仕留めるようなスピードで彼の足は振り落とされた。
砂の山は彼の足の形を綺麗に残し、かつて山だったことなど瞬時に忘れたようだった。
即座に大号泣をする綾ちゃんと唖然としている私に彼は何も言わず去っていった。
幼稚園という場所において同じ立場に置かれている園児同士名前を確認したりした記憶は殆どない。
先生や親たちが、あるいは園児が、誰かの名前を呼ぶのを見、あぁあの人はそういう名前なんだと把握していた。
他の園児がどうだったかなど知る由もないが。
ともかく、そうやって仕入れた情報をもとに、
与られたお遊戯という名のタスクを遂行するにあたって近い位置に居合わせた「お友達」の名前を呼ぶのだが、
その度に相手は怪訝そうな顔をした。
『なんで私の名前知っとると?』
彼女らはそう言う。
男の子は大抵黙ったまま、彼らの頭の中に浮かんだ何故?をすぐに忘れるようだった。
今でこそ情報源は前述のようなところにあるんだろうと思い至るのだが、
自分がなんでその人たちの名前を知ってるのかなんて実際自分が幼稚園児の時に一々考えていたわけではなく、
ただ知っているでしかない。
だから何故と聞かれると適当に答えるしかなかった。
なんとなくとか、聞いたことあるから、とか。
適当で問題はなかった。
いつも答えは同じ。
『ふーん。』
山を崩して去ってしまった彼に話を戻す。
実は、彼の名前が思い出せないことがこの適当に並んだ文字列の起源だ。
私は彼の名前を思い出せない。
代わりに彼の素行については割合明確に覚えている。
彼は双子の兄だった。
弟と瓜二つの顔をしていたが、弟よりも1センチくらい身長が高く、
体格も少しだけ弟よりがっしりしていた。
幼稚園の先生たちからはやんちゃな双子兄弟としてセットで印象付けられていた。
◯◯・△△と、まるでパンダのリンリン・ランランみたいな愛称もあった。
ありふれた双子のようで嘘っぽくなりそうだが、(ありふれた双子なんてきっとないけど。)
彼らは同じデザインの服を着ていることが殆どだった。
山を崩した本人である兄は赤、弟は緑色の。
幼稚園児のとき、テレビ以外で双子という存在に出会ったのは彼らが初めてだった。
どうすれば双子が生まれるのか、
彼らは同じことを考え同じ音を聞いているのだろうか
などと考えたりもした。
双子が生まれる原理については、なんとなく先生や親に尋ねてはいけない気がした。
彼の親は割合忙しい仕事についているらしく、
しょっちゅうどこか別の県へ出張に出かけるようだった。
朝、お婆ちゃんと登園する姿をよく見た。
とても優しそうなお婆ちゃん。
ドラえもんののび太のお婆ちゃんのようなお婆ちゃん。
そして帰る時もお婆ちゃんが迎えに来たが、彼はいつも帰りたくないと駄々をこねていた。
正確には帰りたくないという顔をして、園の玄関から動くまいとした。
私は、何故彼は帰りたくないのだろうかと思った。
兄である彼は専ら一人で遊んでいた。
かく言う私も専ら一人遊びに興じていた。
それ故私は例の山の一件があるまで彼の存在には殆ど気がつかなかったでもある。
自分が通っている幼稚園に双子がいるという印象はあったが、
そいつらがどんな奴かなんて考えたこともなかった。
何故彼が山を崩しに来たのかについてはたいして深くは考えなかった。
ただ彼は山を崩した。
山は山であることを忘れ、綾ちゃんは号泣した。
それだけだった。
山の一件があってから、綾ちゃんは私を室内の遊びに誘うようになった。
綾ちゃんから双子の兄との一件を報告されたお母さんが、
園庭で遊ぶことを禁じたらしい。
あまり外が好きではなかった私には好都合だった。
実は正直言って私は特に綾ちゃんと仲良くする意思があったわけではない。
一人でいると先生たちが心配し親に余計なことを言うのでしょうがなく綾ちゃんといたというのが当時の実情だった。
綾ちゃんは自分の世界に浸るタイプの遊びが多かったので私はそれを眺め、
適当なところで相槌を打てば良かった。
それはたまに面倒ではあったが。
ある日綾ちゃんは私にセーラーエンジェルごっこに加わるよう依頼した。
加わるといっても参加者は綾ちゃんと私のみだが。
綾ちゃんは私に机の下に隠れるようにと命じた。
そして何の打ち合わせもなく綾ちゃんはセーラーエンジェルの修羅場を演じる。
敵の声も、少し負けそうになるが必死に戦うセーラーエンジェルも、全部綾ちゃんがやっていた。
『くっ…敵の力がいつもより強くなっているわ…。どうしてかしら…。でも、私負けないっ。負けるわけにはいかないのっ!!!!!』
幼稚園児の即興にしては迫真の演技。
そして必殺技を何度か繰り出す綾ちゃん。
私はそれを机の下で隠れたまま眺めていたが、途中で飽きてそのまま寝てしまった。
綾ちゃんのつん裂くような泣き声で目が覚めた。
反射的に慌てて立ち上がり机に頭をぶつける。
寝ぼけながらよろよろと机から出ると綾ちゃんは私を指差してなにやら叫んでいる。
どうやら私は居眠りにより彼女の舞台での自分の出番を逃したらしく、
綾ちゃんは気にくわないあまりブチ切れているようだった。
付き合いきれなくなった私は
『はい。君はセーラーエンジェルには向いてないよ。終わり。』
と言って廊下に出た。
綾ちゃんはさらに大きな声で泣き叫ぶ。
絶対にセーラーエンジェルになりたいのにどうしてそんなこというのーーーーーー。
山を崩した彼は私たちの一連のやりとりを眺めていた。
そして私が去った後、綾ちゃんに話しかける。
『僕、セーラーエンジェルに出てくるアレになりたいんだ。』
その先、幼稚園で綾ちゃんがどんな生活を送っていたかについては記憶がない。
私は綾ちゃんから目を離し、別の世界を眺めていた。
(漂流する世界の片隅で 2)
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