2023-04-09

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このページを開きなんらかの文字列を書きつけるときにはいつも、最後に更新したのがいつだったかを確認することになるのがもはや通例となっています

御多分に漏れず今日もそうです。

前回は2021年10月とあります。
今回は実に1年半ぶりの更新です。
そのころからはじめた新しい仕事は今も続いています。






夕瓶20230409







近頃、僕は自身の一人称を“僕”に統一しています。

ひとりの人間が一人称を何にしようと、今や誰もたいして気にしないような流れもあるでしょう。

しかし僕は僕の同一性について長いこと思うことがあるせいで、それについてはかなり神経質だともいえるかもしれません。

たとえばこのブログに投稿した記事の扱いに於いてもそれは顕著です。

かつて、僕はほとんどすべての一人称を編集したことがあるのです。

“僕”だったものを“私”に。





近影/2022年11月22日/川崎チッタ100周年イベントで歌唱


近影2/2022年11月22日/川崎チッタ100周年イベントにて歌唱







2021年10月の記事を読むと、当人としては強烈な違和感を覚えたりもします。

その時期の僕はある特定の領域からの視線に屈服するような形で一人称を捻じ曲げて矯正しようとしていました。

それまでは、僕も私も、
指に突っかかることなく
よどみなく溢れ、
混在していた。

現在は、音声を用いたコミュニケーションにおいては“ワタシ”と言い、文章においてはほとんどすべての場で“僕”と称しています。

他人様からすればどうでもいいことであることも重々承知しています。

だけど近頃は、このあたりのことについて考え直さざるを得なかったりするわけです。





近影3/non-binary in the realm of self-existence






昨年の、いつだったかはもう忘れかけているのだけれども確かに昨年の夏から秋ごろ、僕は7年くらい名乗り続けた名前を使うのをやめました。

やめる理由、目的がありました。

しかし目的のために遂行された、ある意味において軽率すぎるその行動によって、それ以来、シゴトをしているとき以外の自分が極めて曖昧な領域に飛んで行ってしまったらしいのです。

インターフェースを失ったデジタルデータが、生身の人間に極めて解読困難なように、僕の存在はいま、雲よりも曖昧な領域を彷徨っていると言わざるを得ないでしょう。

ひとつの名前を意図的に失ったことの後悔は微塵もありません。

けれども少しばかり、いや実はかなり、僕自身のなにかが、困ってしまっているようです。

この困り様はここ1か月くらいの間に急激に、もはや身体感覚として表れているとも思います。





20230409windows





変えたので、変わった。

雲の行き先に手を掛けたので、水の流れる先が変わる。